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エッセイ

親切が隠せない真実―『日本移民日記』を読み直して

Moment Joon 写真
ラッパー
Moment Joon
移民者ラッパーとして,唯一無二の目線を音楽で表現する。2019年に『Immigration EP』,2020年にアルバム『Passport & Garcon』を発表。Sky-Hi,Gotch(ASIAN KUNG-FU GENERATION)等と共演。音楽活動以外に「文藝」で自伝的小説『三代』,岩波文庫からエッセイ集「日本移民日記」が発表。

1.

何故今まで自分が日本語で書いたエッセイは,全て敬語であったのか。足りない語彙力と表現力を,腰を低くすることで読者に許してもらう戦略だったろうか。もしかしたらそれは自分の伸びしろのない日本語に煙幕を張る以前に,心のもっと深い所にある醜い不安に化粧を塗る行為だったかも知れない。「読んでもらえない」「見てもらえない」「分かってもらえない」ことへの不安にやられて,普段は別に使ってもいない敬語で丁寧に書かれている自分の昔の文章を読み直すと,その「親切さ」が可愛いというか可哀そうにも見える。

『日本移民日記』は,確か日本社会に聞いてもらえなかった話,日本に現存しているにも関わらず日本からは「存在しない」と言われてきたたことを,人たちに届けるために書いた文章であるはずだった。書かれてから3年が経った今読み直してみても,少なくとも後10年は日本社会の無意識に浸透しなさそうな,希少で貴重な話を書いたと自負も感じるが,その結果で読者の頭の中に描かれる「Moment Joon」という人間のラフスケッチが気に食わなくて耐えられない。そんなことをさせてしまう自分の「親切」な文章が許せないのだ。

日本に住む移民にとって「親切」は宿命である。それは,同等な力を持つ人同士で葛藤を防ぐために発達して共有される文化的コードではなく,弱い立場の人間が自分の尊厳と安全を守るために相手に張る,一方的な戦略である。底知れないほど深い文化的・歴史的な文脈の上で安心感と共に顔に浮かんでくる,いわゆる「普通の日本人」の笑顔と,何とか頑張って顔に載せてみるけど,その下にある不安というレイヤーが透けて見えてしまう自分の笑顔は,どうしてもその単価が違うのだ。俺は,ラップでは「そんな笑顔はもういや」と叫んでいるくせに,文章という鏡の前ではその笑顔を,日本語の高低アクセントを練習するかのように練習していた。

2.

留学生としてここに来た俺にとって,日本は実体のある「他者」であった。ここで会う人たちや言語,考え方と風習,食べて使って消費するもの,かつてこの地に起きた歴史や今存在する物理的な空間など,「俺」を除いた全ては「日本」であった。日本は,俺に優しくて厳しく,親切で無礼,暖かくて怖かったけど,その全ては「俺」とは分離された日本が俺を対象に行ったものであって,俺に出来ることは自分が置かれた環境の中でどう自分をコントロールするか,だけな気がした。

ラップをしなかったら,歌を歌わなかったら,多分ずっとそのアホな考え方のままであっただろう。俺のラップと詩に人たちは反応して,時には俺が彼らに与えて影響について一生懸命教えてくれた。大学サークルの先輩たちが地元の小さいクラブで言ってくれた誉め言葉が,10年という時間を経て俺の音楽を聞いた人が刑務所から送ってくれた手紙に変わる間に,俺は気付いた。「俺」と「日本」は離れていなくて,二つはお互いの一部であることを。ここに住み始めたその瞬間から,「生きていく」と決めて物を消費して価値を生み出し始めたその瞬間から,ずっとそうであったことを。

しかし「いつ国に帰りますか?」や「こんな国でゴメンね」などの言葉は,「帰れ」よりも乱暴に俺を「日本」から切り離した。それでもその言葉に込められた善意や優しさは基本的に暖かくて,周りの留学生や外国人たちには経験できないその暖かさが,自分を特別な存在にしてくれるかの気もした。

でも俺は特別でも何でもない。自分がその一部であって自分の一部である国から異邦人扱いされることなんか,俺一人だけのドラマじゃないのだ。隣のロシア人の彼女を見る。後輩の在日の青年を見る。実は自分は部落だと,人に見えない所で言ってくる先輩を見る。俺と彼らの話を声が出なくなるまで叫んで歌いたい同時に,暖かく見てもらっている人たちに囲まれて安らぎたい欲望の両極端の間で,俺の体は真ん中から二つに少しずつ敗れていた。『日本移民日記』のその「親切」な文章は,敗れた自分を何とか縫い合わせるための試みに読まれる。

親切で何が悪い。もちろん。ただ,その親切が真実を隠してしまうことが問題なのだ。上にも書いた,いわゆる「普通の日本人」にとっての「親切」とは,本人たちが知っている知識と世界観,価値判断を再確認してくれるものである。その親切とは全く違う俺の「親切」,移民・外国人・外人たちの親切を目の前にして,いわゆる「普通の日本人」はまた思っちゃうのではないだろうか。「あ,やはり人て皆一緒だよね」「話せばやっぱり心て通じるんだよね」,と。

「読んでもらいたい」「見てもらいたい」「分かってもらいたい」で親切に書かれた俺の文章は,真実を(少しだけだが)隠している。それは,人は一緒ではないし,話しても通じない心もある,ということを。

3.

日本の多文化社会化,移民社会化がこれからどう展開されていくかなど,学者でも活動家でもない俺には分からない。そんなのはこのジャーナルの読者たちの方が詳しいだろうし,俺はただその当事者として日本で働いて,夢をみて,飯を食って生きていくだけだ。ただ,社会学・経済学的なインサイトは持ってないけど,一人の移民として作っていきたい未来の日本の像は持っている。我々移民の人たちが,主体的に生きていける日本。

国民国家と国籍,パスポートが個人が定義する世の中で,「移民が主体的にいきていける社会」は,その前提から国家と主流社会の「配慮」が必要であると散々言われてきたし,今この文章を読むあなたもそう思うかも知れない。

しかし俺は,その「配慮」より優先する我々移民の「実存」を見る。人としてこの地に足を付けていて,人と関わりながら価値を生み出して,喜怒哀楽の中で生きて死んでいく我々の実存は,『Youは何しに日本へ』や強制送還によって壊されることはあっても,決して「存在しなかった」と消されることは出来ない。ここ日本で移民が主体的に生きるために先に必要なものは,法的身分でも主流社会からの配慮でもなく,自ら主体性を自覚することだと,俺は信じている。

そういう意味で俺の『日本移民日記』の文章は,真実を半分しか語っていない。もし「読んでもらいたい」「見てもらいたい」「分かってもらいたい」を超えて,箇所箇所間違っているけど素直な自分の日本語で,本当のことを全部書き降ろしたとしたら,読者にも伝わっただろう。いくら善意や優しさを持って移住労働者や移民を理解しようとしても,あなたには分かり切れないことがあることを。その善意や優しさえ有れば「気持ちよく」一緒に生きていける未来が作れるのではなく,「一緒に生きる未来」はもはや既成の事実で,そこには今まで感じたことのない違和感や緊張感もある,ということを。

その違和感と緊張感が嫌で「帰れ」と言う人も,「日本」を「限られた資源」と同一化して移民を「それを奪いにきた人たち」と中傷する人も居る。『日本移民日記』の文章の上に塗られている恥ずかしいほどの「親切」を剝がしながら,俺はその本が伝えきれなかった真実についてもう一度考える。価値を生んで,間違いを犯して,笑って泣いて,泣かせて笑わせて,愛して憎んで,働きが終わった後も生きている我々の存在について。俺の文章を読む人が手を伸ばしてくれなくても存在している,ここの俺について。

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