特別寄稿多文化共生社会の構築における課題とは

「多文化共生社会の構築」を目指す前に必要なこと

下地 ローレンス吉孝
カリフォルニア大学バークレー校,ジャパニーズ・スタディーズ・センター
下地 ローレンス吉孝

日本社会にはすでに様々なルーツの人々が暮らしている。しかし,人々の認識や社会制度の中には,「われわれは単一人種である」という単一人種主義(モノ・レイシズム)が深く根付いている。さらに,排外主義やレイシズムなどが密接に絡み合う中で,心身の健康被害や制度的問題が生じている。現実を直視した多文化共生への取り組みのためには,まずすべての人の基本的人権が保障されるべきである。

1.すでに多様な人々が暮らす現実と,認識・制度の乖離

外国籍の市民はもちろん,日本国籍であっても人種・民族的に様々なバックグラウンドのある人々や,元外国籍で日本国籍を取得した人々,そして無国籍や多重国籍の人々もこの日本社会にすでに暮らしている。日本では国籍に基づいた人口統計しかないため,米国や英国のように日本市民内部の人種・民族ごとの人数を数えることができない。日本国憲法と国籍法の規定からすれば,国籍=人種・民族ではないため,「日本人」あるいは「日本市民」といってもすでに多様な人種・民族的バックグラウンドの人々が共に生きているのが現実だ。逆に,「日本人は単一人種だ」「日本は単一民族国家だ」と言い切ること自体が,生物学的にはもちろんのこと,統計的にも法的にも全く根拠がなく本来は不可能であるということだ。しかし,人々の認識や社会制度の中には,「われわれは単一人種である」という単一人種主義(モノ・レイシズム)が深く根付いている。認識や制度が,社会に生きる現実の人間一人ひとりの実態と乖離しているということだ。

私はこれまで「ハーフ」「ミックス」と呼ばれる人々について調査を進めてきた。このような人々の日常経験は,モノ・レイシズムに基づく認識と制度によって大きな影響を受けている。例え日本生まれ日本育ちで第一言語が日本語であっても,「日本語上手ですね」「何人?」「どこ出身ですか?」「日本に来て何年ですか?」などといった質問が頻繁に投げかけられる場合がある。これらは,その人の外見や名前などの指標に基づいて「あなたは日本人ではないが~」という人種的な偏見を前提にした発言であり,差別の一形態であるマイクロ・アグレッション(日常における攻撃)と呼ばれている。

アイデンティティの根本部分を否定するこれらの発言は,精神的に負の影響をもたらすだけではなく,健康被害のリスクも高めている(スー 2020)。さらに,移民や外国に繋がりがある人々を排斥しようとする排外主義,人種・民族マイノリティに対するレイシズム(人種差別主義),そしてモノ・レイシズム(単一人種主義)が密接に絡み合う中で,心身の健康被害のみならず,教育や労働,医療やケアの領域にアクセスすること自体が困難になるという制度的問題が生じてしまっているのが現実だ。多文化共生において前提とされるべきことは,外国籍住民の権利を保障することだけに限らない。人種・民族的マイノリティに不利益な社会構造が続いているのであれば,国籍にかかわらず,すべての人にとっての基本的人権が保障されていないということである。多文化共生とは,単なるお題目や,地域の当事者が自己責任として課されるべきことでもない。多文化共生は,すべての人々にとっての基本的人権が確立された先にあるもので,国や社会制度はこれを保障する責務があるということだ。

2.基本的人権の保障を阻害するものは

基本的人権の保障を阻害する要因は数多く存在するが,人種・民族的マイノリティに関する主要な問題について以下にいくつか挙げてみたい。まず,モノ・レイシズムについては,①政治家たちによって「日本は単一民族国家である」という発言が繰り返されることでモノ・レイシズムが社会的に肯定される状況が生み出される。さらに,②人種・民族に基づく人口統計をとらないため国籍のみの人口がその単一民族神話を補強してしまう。そして,③政府の進める多文化共生施策においても「受け入れる側の日本人」「受け入れられる外国人」という二分法が強固に前提とされ,日本社会や日本人の現実の多様性が不可視化されることで結果的にモノ・レイシズムが強化されてしまっている。その上で,排外主義やレイシズムについては,④国連からたびたび包括的な差別禁止法と国内人権機関の設置を求める勧告を受けているにもかかわらず,これらの設置を日本政府が頑なに拒否し続けている。

つまり,基本的人権の保障については,個々人の水準の問題というよりも,上記の結果から見てもあきらかなように,現在の日本政府が行なっている政策自体がその大きな阻害要因の一つとなってしまっているという重大な現実が浮かび上がる。国連勧告に対して単に「検討する」という姿勢だけを続け,実質的にそれを拒み続けるのであれば,国際問題への発展も避けられないだろう。国際社会での責任を果たすためにも,国民国家として自らの現実の姿を直視することから始めていく必要がある。その段階を踏まなければ,「多文化共生」は本当に単なるお題目だけの役割に止まってしまうだろう。

3.政府の多文化共生施策における問題点

日本における多文化共生関連の施策について詳しい明治大学教授・山脇啓造によると,1980年代後半から自治省の「地域の国際化」政策が始まり,1992年には国際交流推進型と在住外国人対応型の「国際交流のまち推進プロジェクト」が発足。さらに1995年には自治省より全国へ「国際協力大綱の指針」が配布され,1998年には「地域国際化協会等先導的施策支援事業」が始まった(山脇 2011:29)。2006年には総務省において「地域における多文化共生推進プラン」が策定される。また同年に外国人労働者問題関係省庁連絡会議によって「『生活者としての外国人』に関する総合的対応策」が策定された(山脇 2011:35)。2008年にはリーマンショック以降の不況の中で,失業する外国人労働者やその子どもたちへの支援を目的として2009年1月に「定住外国人施策推進室」が内閣府に設置された。2010年には「日系定住外国人施策に関する基本指針」が決定され,2011年には「日系定住外国人施策に関する行動計画」が策定されている。 また政府は,「特定技能」の在留資格創設などを踏まえて,2018年には「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」を策定し,様々な施策を実施してきた。

しかしながら,原知章が以下に指摘するように,これら政府による多文化共生関連施策ではその支援の対象が「外国人」として陰に陽に設定され,日本内部の多様性は不可視化されている。

多文化共生推進プランとその土台となった総務省報告書では,ニューカマーが急増し定住化が進んでいるからこそ,互いの文化的違いを認め合い,対等な関係を築くことが必要だとされる。そこでは,例えば在日コリアンや外国にルーツを有する日本国籍者,あるいは無国籍者といった人々の存在はほとんど視野の外に置かれていて,「日本人」や「日本文化」の内的多様性や境界の流動性についても言及されることがない。換言すれば,現在日本で進められつつある多文化共生政策では,「日本人」や「日本文化」の同質性・固定性・自明性を前提としたうえで,「私たち日本人」が「彼ら外国人=ニューカマー」をどのように受け入れるのかという問いによって,多文化共生の理念が枠づけられているのである。(原 2010:38-39

このように多文化共生関連施策のなかで貫かれてきたのは「日本人」対「外国人」という二分法であった。さらに,政府の多文化共生施策については,すでに多くの研究者や活動家から多くの批判があがっている。これらに詳しい山根俊彦(2017)によると,①在日コリアンなどのいわゆる「オールドカマー」の視点が抜けている,②アイヌや被差別部落出身者,沖縄の人々,障害者や高齢者などを多文化共生の対象に含める必要がある,③人種・民族的なマジョリティにも教育すべきである,④「文化」に注目が集まることで構造的な差別や支配関係が隠蔽されてしまう,⑤これの結果として多文化共生が「同化」を要求してしまうなどの点が挙げられている。

また,批判だけではなく数多くの提案や提言もなされてきた。特に重要なものの一つとして,山脇啓造・近藤敦・柏崎千佳子の三氏による「移民国家の条件」(2000年)が挙げられる。ここでは,移民庁の設置,移民統合政策の確立,多様性を前提とした社会の構想,入管法の改善,外国人基本法の制定と基本的人権の保障,就労や教育に関する権利保障,国籍法の改定,多様性を前提とした民族的アイデンティティの保障,調査の実施や行政サービスの拡充など,包括的で抜本的かつ具体的な種々の提案やアイディアが盛り込まれている。しかし,すでにこの提言から20年以上の歳月が流れているが,ここで書かれている理想には程遠いのが日本の現状である。

北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授の石原真衣は,「SDGs」や「ダイバーシティ」が必ずしも人種差別の解消につながっているわけではないという重要な点を指摘している(石原 2022)が,日本政府の用いてきた「多文化共生」にもこの指摘が当てはまるだろう。今,問われているのは,「多文化共生」と,人種差別の解消,そして基本的人権の保障という問題をいかに密接に結びつけていけるのか,という点である。石原は続けて以下のように締めくくっている。

せっかくだから,自分が安心できる世界に閉じこもっていないで,少しだけ居心地の悪さも感じながらどんどんつながり合っていきたい。そのつながりは安っぽくて薄っぺらい「連帯」や「共生」や「ダイバーシティ」をもっと素敵なものに作り変えていくだろう。読者のみなさんもこのプロジェクトに参加しませんか。(石原 2022:194

社会構造や現行の制度が差別を温存されているという現実,多様な人々が暮らしている日常があるという現実。これらの現実を受け止めることは石原の述べるように居心地の悪いことだろう。しかし,まずはそれら現実の姿を直視すること,そして基本的人権の保障にむけて状況を改善していくこと。そのための法律や制度を確立すること。その上でなければ,多文化共生はただのお題目になってしまう。基本的人権を蔑ろにしたままで一足飛びに多文化共生へと進むことはできない。未来の姿よりもまずは,現実の姿を直視するところから一歩ずつ始めていく必要がある。

参考文献

石原真衣,2022,「あとがき」石原真衣編『記号化される先住民/女性/子ども』青土社,189-195.
デラルド・ウィン・スー,2020,『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション 人種,ジェンダー,性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』明石書店.
原知章,2010,「『多文化共生』をめぐる議論で,『文化』をどのように語るのか?」岩渕功一編『多文化社会の〈文化〉を問う――共生/コミュニティ/メディア』青弓社,35-62.
山根俊彦,2017,「『多文化共生』という言葉の生成と意味の変容―『多文化共生』を問い直す手がかりとして」横浜国立大学都市イノベーション研究院『常盤台人間文化論叢』3(1):135-160.
山脇啓造,2011,「日本における外国人政策の歴史的展開」近藤敦編『多文化共生政策へのアプローチ』明石書店,21-39.
山脇啓造・近藤敦・柏崎千佳子,2000,「移民国家日本の条件」明治大学社会科学研究所『明治大学社会科学研究所ディスカッション・ペーパー・シリーズ』No. J-2000-6.
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