特別寄稿多文化共生社会の構築における課題とは

沖縄のアメラジアンから多文化共生を考える

野入 直美
琉球大学 人文社会学部
野入 直美

ここでは,日本における「多文化共生」の地域文脈と政策文脈を踏まえて,「アメラジアンという視点」から多文化共生の課題を考察する。「ダブル」に含まれる移動と混淆,消費される「ハーフ」像をめぐる非対称性,さらに「アメラジアン」の出生の背景にある戦争と軍事を射程に含めることで,多文化共生はさらにポテンシャルを拡大することができると考えられる。

はじめに

アメラジアン(Amerasian)とは,アメリカ人とアジア人の両親をもち,米軍の派兵・駐留を背景として生まれてきた人びとを意味する。日本では,在日米軍基地の約7割が集中する沖縄で,多くのアメラジアンが生まれてきた。もともと「アメラジアン」は,ベトナム戦争に従軍した米兵と現地女性との間に生まれ,米軍が撤退した後に困窮する子どもたちを助けたアメリカ人支援者が用い始めた呼称である。一方で日本では,アメラジアンの母親たちが「ダブルの誇り」を込めた名乗りとして「アメラジアン」を用い,1998年に「アメラジアンスクール・イン・オキナワ(AmerAsian School in Okinawa,以下アメラジアンスクールと表記)」を設立した。それから「アメラジアン」は,子どもの学びのコミュニティにつながる言葉となった。

私は,同スクールの設立の数か月後から母親たちの運営ミーティングに参加して参与観察を行い,やがて運営にかかわり,学生をボランティアに導くようになった。私にとってアメラジアンスクールは,学生が地域で共生を学ぶための受入れ施設であり,自身のアクションリサーチのフィールドであり,理事として運営にかかわるNPOである。ここでは,そこで得られた「アメラジアンという視点」を用いて多文化共生の課題を考察する。以下はアメラジアンスクールの公式見解ではなく,文責は私にある。

1.日本における「多文化共生」

日本の「多文化共生」には,地域ベースで外国人住民と共に生きる社会を目指す文脈と,人口減少への対策として総務省が提起し,自治体に推進計画を策定させてきた文脈のふたつがある。そこに,企業社会の関与という新たな文脈が加わってきた。

地域ベースの多文化共生は,外国人集住地域から始まり,ネットワークが形成され,子ども支援,まちづくり,インバウンド等の実践が展開された。阪神・淡路大震災は「ボランティア元年」を生み,多言語放送のコミュニティFMでは当事者が不可欠な役割を果たした。東日本大震災は,外国人散住地域の問題を露わにした一方,「やさしい日本語」の開発をもたらした。

政策としての多文化共生は,総務省が2006年に「地域における多文化共生推進プラン」を打ち出したことに始まる。自治体は多文化共生推進計画を策定し,進捗をモニターした。政策は横並びで,実効性を欠いたり当事者のニーズから逸れていたりしたが,地域ベースの実践を支え,官民連携につながる展開も出てきた。

そして企業が多文化共生のアクターとなったことで,プロジェクト化,合理化や専門分化が進行してきた。現代の「多文化共生」は,産官民連携のプラットフォームに掲げられるフレームのひとつである。そこには個人のとりくみも,プロジェクトもある。「多文化共生」は,共生を目指す多様な試みを含んだ動員力のあるムーブメントである。なぜそれを,「アメラジアンという視点」から問い直さねばならないのだろうか。

2.視点としての「アメラジアン」

アメラジアンは,アメリカ人とアジア人の親をもつ「ダブル」である。そのダブル性に着目すると,「共生」が前提にしやすい日本人/外国人という二項図式は否応なく,とらえ直しを迫られる。「ダブル」の中には,日本人でも外国人でもある人,いまここでは日本人かもしれないが別の時空間では違う人,定住しつつ移動している人など,混淆と移動を生きる人がいる。「日本人と外国人」という分け方の非現実性が,「ダブル」に着目するとよくわかる。さらに,「ダブル」をとらえた視点で「ダブル」以外の外国人に目をやると,日本人との差異を本質化してはいないか,違いと重なりの間を行き来する動的なグラデーションを見落としていないかを問うことができる。

「ダブル」よりも,「ハーフ」という自称や呼称のほうが一般的である。アメラジアンの子どもは,「ハーフ?いいなぁ。英語しゃべって」と,くりかえし言われる。他者からの期待としての「ハーフ」像に着目すると,マジョリティにとって好ましい異質性だけがマジョリティによって賞味される非対称性が見えてくる。マイノリティがちやほやされていると,もう差別はないという解決済みのラベルを貼りがちだが,いつ,どのように,誰を称揚するかはマジョリティが専有的に決定しているのである。「いいなぁハーフ」の次の瞬間,「ハーフのわりに英語が下手」という失望や,「英語コンクールに出るなハーフずるい」という罵声が来る。これらは,アメラジアンスクールの卒業生が実際に経験したことである。その場面では,マイノリティを思うままに他者化し,好ましい異質性だけ味わっては捨てるマジョリティの暴力性は問われない。多様性をコンテンツ消費する側は,アイデンティティに土足で踏み込まれ消費される側の痛みを想像しなくて済んでいる。もちろん,「ハーフ」の生に,これとは別の関係性や生き方が含まれていることは言うまでもない。

また「アメラジアン」は,固有の時空間において生まれてきた歴史的な実在でもある。そこに着目すると,「多文化共生」の時空間が広がり,視野が多層化する。「多文化共生」フレームの成り立ちは外国人労働者の増加を背景としているが,アメラジアンはグローバリゼーションの時代よりずっと前からアジア各地で生まれてきた。その出生数は,正確には不明である。ベトナムでは約8万人が生まれ,そのうち7万7千人が「アメラジアン法」という,アメラジアンの子どもをアメリカ移民させる法律によって渡米したとされている。フィリピンでは,1991年の米軍基地閉鎖が決まった時点で約5万人のアメラジアンがいると推定された。韓国ではアメラジアンの支援団体であるパールバック財団が4,500人の子どもを登録したが,登録しなかった人もいる。沖縄は,日本弁護士連合会の調査団が約3,500人の国際児がいると推定した。いま,アメリカ人の父親と日本人の母親をもつ子どもの沖縄における年間出生数は265人で,これを掛け算すると学齢期だけでも3,180人,幼児を入れると子どもの数はやはり3,500人くらいになる。アメラジアンの子どもは,第二次世界大戦,朝鮮戦争とベトナム戦争の中で,またその戦後にかけて,さらにアジア諸国に置かれた米軍基地を背景として生まれてきた。戦争と軍事は,これほど多くの「ダブル」の子どもをもたらしてきたのである。「アメラジアン」という視点によって,「多文化共生」には戦争と軍事の認識が加わる。それは,難民支援のポテンシャル拡大につながりうる。

3.包摂と自己責任

こういう予備知識をもってアメラジアンスクールに行くと,ゆるい空気に拍子抜けするかもしれない。基本的にアメラジアンの子どもばかりなので,「英語しゃべれる?」的な他者化は起こらない。小規模校らしい親密さがあり,行事予定表には生徒の誕生日が記されている。アメリカ生まれの子,基地内学校に通ってきた子,沖縄で育った子,越境を繰り返す子などがいて,言葉の用い方や学力は必ずしも年齢と一致しない。アメラジアンスクールに通ううちに,ほとんどの子どもは英語と日本語を話すようになり,相手によって言葉を切り替える。これができないのは大人のほうで,卒業生は教員のとほほなモノリンガルや異文化間衝突をネタに作文コンクールで受賞したりして,なかなか小憎らしい。アメラジアンだからといって,日々,自分は米軍基地があったから生まれた存在なんだ,みたいに重く考えこんでいたりはしない。子どもは,子どもの日常を生きている。それができる場をつくることが,アメラジアンスクールを立ち上げた母親たちの願いであった。

アメラジアンスクールは,1998年に,アメラジアンの母親ら5人の女性によって設立された民間の教育施設である。幼稚園から中学校課程までの全日制で,65人の生徒たちが沖縄本島全域から通ってくる。受け入れ対象は「日本語と英語によるダブルの教育を必要とする国際児」で,外国人の両親をもつ子どもは5%を上限に受け入れ,日本人の両親をもつ子どもは学童やサマースクールだけに受け入れている。

アメラジアンスクールは,AmerAsian School in Okinawaと表記する。「アメラジアン」という単語の中に,大文字のAがふたつ入っているのは,アメリカとアジアの言語・文化を等しく尊重し,どちらにもつながっている自分を肯定的にとらえる自尊感情を育むという「ダブルの教育」の理念を表している。英語教育は重要だが,卒業までに英語ぺらぺらにするというような教育目標は掲げず,アメラジアンの子どものコミュニティであることを大切にしている。

アメラジアンスクールで学んだ日数は,地域の公立学校によって「出席扱い」とされている。公立学校との公民連携によって進級・卒業ができ,ほとんどが県内の公立高校に進学してきた。卒業生の大学進学率は,全国平均より低いが,沖縄県平均を上回っている。

このように書くとキラキラして見えるが,財政は厳しく,授業料収入では教職員の給与を賄えていない。宜野湾市の公共施設を間借りしていて,体育館,運動場,プール,理科実験室は整っていない。保健室がないから保健室登校もない。ここにあるものはとても豊かだが,ないものはきっぱりと,ない。公立学校に行かせれば無償だというのに,安いとはいえ月謝を払い,出勤前後に送迎して子どもを通わせている保護者の思いには,いつも胸をうたれる。

ここまでの道のりは,平坦ではなかった。困難だったのは公民連携で,公立学校から,運動会への不参加を理由として体育の成績に「1」をつけられたり,「公立学校へ通ってこないくせに(校内)推薦だけ欲しがるのか」とののしられたりしたが,あからさまな態度は,ある意味で対応しやすかった。微妙で難しいのは,「この生徒は,公立学校に来たいけれど来れないんですね?」と確認をとられるような些事のほうだった。つい相手に合わせ,子どもが公立学校に「行けない」面を出し,「行かない」面を引いて話したこともある。こういう軋轢がなくなったいま,ふりかえってみると,このやりとりの中には,包摂と自己責任をめぐる問題が見いだせる。

マイノリティは,マジョリティの中に受け入れてほしいのですが難しいですと訴えると,支援を得やすい。そのような姿勢が確認できないと,自己責任という穴へ放り込まれる。既存の制度に対する従順さを見定める踏み絵が,地面に埋め込まれている。しかし,周囲と異なっているからマイノリティなのだ。その人びとがいちいち,「日本のやり方に背を向けてはいません」と釈明しないと助けてもらえないしくみを,包摂と呼べるだろうか。ここにも,マジョリティが許容できる異質性だけがマジョリティによって専有的に選ばれる非対称性が見える。

以上は「アメラジアンという視点」であり,そのリアリティではない。これから沖縄へ足を運び,子ども支援に参画していく新たなアクターとの出会いを願いつつ,稿を閉じる。

参考文献

野入直美(2022)『沖縄のアメラジアン―移動と「ダブル」の社会学的研究』ミネルヴァ書房.
Vol.1に戻る